The Regina Music Box Company (c.1894-1921)
レジナ社の歴史は1892年にポリフォンの共同創始者であるグスタフ・ブラッハウゼンが5人の職人と渡米したことから始まる。彼はニュージャージー州のジャージー・シティに落ち着きレジナ・ミュージック・ボックス・カンパニーを設立する。ブラッハウゼンは当時3つの有名なディスク・オルゴール会社に於て重要な人物となった。1つ目はシンフォニオン社でのパウル・ロッホマンの監督役、2つ目はポリフォンの共同創始者、そして最後に米国で初のディスク・オルゴールを生産を行うレジナ社の創業。渡米した後1年ほどブラッハウゼンはポリフォンの「相棒」で共同特許権所有者でもある、パウル・リスナーのために米国における特許出願に時間を費やした。
1894年の春にレジナ社は3人の株主(ブラッハウゼン、リスナー、そして後援者でもあるジョナス・J・コーナー)によって法人化された。その後急速にレジナ社は名声への階段を登り詰める。 創業当初レジナ社はドイツ・ライプチッヒにあるポリフォン社から部品及びディスクを輸入しジャージー・シティの工場で組み立てる形をとっていた。しかし、時が経つにつれ徐々に機械のほとんどを米国で生産することになる。初期にポリフォン社から部品やディスクを仕入れていたことは、15-1/2インチ(39.4cm)までのサイズのディスクは両社の機械できることからもわかる。共通ディスクが15-1/2インチまでなのは大型のコイン・オペレーション仕様の機械は1895年以降に生産が始まったためという説が有力である。15-1/2インチ以下のディスクは両社の機械で使えるという事実にも例外はある。しかしそれは単に同様の機械を作っていなかったということに過ぎない。例えば11-1/4インチ(28.6cm)ポリフォンベル付きである。ちなみにこの機械のディスクは普通の11-1/4インチポリフォンに於ても演奏出来ない。レジナ社は20-3/4インチ(52.7cm)と27インチ(68.6cm)のディスクを大型のアップライト型の機械に採用したが両サイズとも天板を折りたたむことができる「フォールディングトップ」タイプのテーブルモデルも存在した。基本的にケースはシンプルなデザインのものが中心であったが、特別注文にも対応し様々な種類のケースが存在した。
レジナ社は年々成長を続け、製造が最高潮であった時期には年商200万ドルに及ぶ年もあった。しかしそれも長くは続かなかった。新世紀の始まった1年目、全米に及ぶ不景気の後1903年にはヴィクター・トーキング・マシン・カンパニーを始めとした大規模なグラモフォンの販売戦略により大打撃を受けた。レジナ社は1919年までオルゴールの生産を続けたが、1903年当時の後退から復興することはなかった。製品の多様化が続けられ、まず1902年には手動の掃除機が開発された。1903年にはポリフォンからディスク・オーケストリオンの輸入を行った。そのディスクは32インチ(81cm)にも及び両社が製造したディスクのなかで最大のものであった。このオーケストリオンはピアノ、チューブ・ベル、ドラム、そしてトライアングルを同時に演奏可能であった。これはオートチェンジャーであったため比較的良い販売成績であった。そしてもう一つのレジナ社の新商品はレジナフォンといい、グラモフォンとディスクオルゴールのコンビネーションであった。この奇妙ともとれる機械には様々なモデルが存在し、ポリフォンも同様のタイプの機械を生産していた。更に自動演奏の分野での挑戦は続き様々な自動演奏ピアノが開発された。その後レジナ社が生産していたか定かではないが、印刷機の販売も行なった。しかしついに1922年レジナ社は倒産に追い込まれたのである。1919年に最後のディスクオルゴールを生産完了し累計で10万台以上をこの世に送りだした。
10年ほど前に同タイトルで記事を掲載しているのですが、そちらはどちらかというと創業当時の歴史的背景がよくわかる経営に関わっていた人へのインタビューを記事にしたものでした。
今回はシンフォニオン社の沿革に関してです。
Symphonion Fabrik Lochmannscher Musikwerke A.G. (c.1885-1912)
シンフォニオン社は1885年に世界初のディスクオルゴールを生産する会社としてドイツ・ライプチッヒのゴーリスと言う町にその社業を開始した。
オスカー・パウル・ロッホマン氏と2人のパートナーであるグスタフ・ブラッハウゼン氏とパウル・リスナー氏によって創業。その2年後にはブラッハウゼン氏とリスナー氏はポリフォンを創設する為にシンフォニオンを去ることになる。1889年に株式会社として登記し、1900年にロッホマン氏がロッホマン・オリジナル社を設立した後は1909年までフランツ・トゥメン氏とハンス・カニッツ氏が実質的な経営を行った。1909年に経営状況が悪化すると会社を再編成しシンフォニオン・ファブリクAGと社名を変更し社屋も同じゴーリスの中ではあるが引越している。
シンフォニオン社は他社が製造した事もないような多くの種類とディスクサイズのオルゴールを製造した事で知られている。その中には同じサイズのディスクであるが櫛歯の調律が違うため違うモデルと認識される機種も存在する。またオルゴールに初めて電動モーターを採用したのもシンフォニオン社であり、電動モーターモデルが1900年の広告に掲載されていた。その後ピアノ・オーケストリオンと呼ばれるモデルの製造を開始しディスクおよびバレルを使用した巨大な自動演奏楽器を製造した。さらに自動ピアノや蓄音機も製造していたといわれている。1912年のカタログがシンフォニオン社最後の自動演奏楽器のカタログといわれているが、第一次世界大戦が勃発する頃にはテューリンゲン州に移動しパウル・セイベ氏により蓄音機を中心に製造する会社と変化していた。
数多くのオルゴールの中には3枚のディスクを同時に演奏するエロイカと呼ばれるモデルや、2枚のディスクを同時に演奏するダブルディスク、豪華なレリーフ装飾を施したケースのロココと呼ばれるモデルなど多くの名機と同時に柔らかな音色で有名である。
The ...
昨年は夏目漱石没後100年の年でした。 自動演奏楽器の歴史で言うと100年前というと蓄音機が台頭し始めて、楽器としての大型オルゴールの歴史が終焉に近づいている時代です。
オルゴールの歴史をまとめるための資料を探していたところ、興味深い記事を見つけました。 昨年の6月に小学館発行のサライという雑誌のオンライン記事に寺田寅彦から晩年の夏目漱石に欧州土産を持参した記事がありました。
サライ http://serai.jp/hobby/66026
今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)6月22日、44歳の漱石は久しぶりの嬉しい訪問客を迎えていた。ヨーロッパ留学から帰国したばかりの寺田寅彦(てらだ・とらひこ)がやってきていたのである。
2年ぶりの師弟の対面だった。寅彦は、漱石のモミアゲにだいぶ白いものが目立ったきたのを感じていた。
師弟の間で会話がはずむ。寅彦は欧州からも盛んに漱石に手紙を書き送り、漱石も返書をしたためていたが、直接顔を合わせると、改めて話したいことも多いのである。
寅彦は、漱石をはじめとする夏目家のひとりひとりに土産を持参していた。
漱石夫人の鏡子にはブローチ、4人の娘たちには綺麗なリボン、長男の純一にはミュージカルボックス(オルゴール)、そして漱石には金のリンクス(カフスボタン)だった。嬉しい心遣いだった。漱石はこのリンクスをフロックコート用のワイシャツの袖口に付け、生涯、愛用することになる。
どのようなオルゴールであったかはわかりませんが、夏目家でもオルゴールの音色が響いていたと考えると感慨深いものです。
J. H. ヘラー J. H. Heller
1870年頃設立されたスイス、ベルンに本社があった品質の高さで有名なミュージック・ボックス・メーカー。品質の高さを保つため、オルゴール発祥の地であるサン・クロアや、オベルソンから機械職人を引き抜いたことで知られている。
1907年に生産を中止するまで小型の宝石箱やケーキスタンド等に仕込む小さな機械から、オルガン付きのオーケストリオンを含む大型の機械を扱うに至った。
The Musical Box Handbook by Graham Webb
The History of the Musical Box and of Mechanical ...
ヴィッシー / Vichy
オートマタを世界に広めたヴィッシーカンパニーは1862年、時計やその他の機械 仕掛けのおもちゃを製造する会社としてスタートした。 オートマタで本格的に有名になったのは、3代目ヴィッシーの社長である "GustaveVichy"の功績が大きい。彼は社長であると同時にオートマタ職人でもあっ た。彼の創るオートマタは、あまりに精巧で微妙な動きをとらえていたため、「もし 中世の法律が今でもあったなら、ムッシュ・ヴィッシーは、魔法使いといわれこの世 から追放されただろう」と当時の人々はうわさした。 ヴィッシーカンパニーが世界に名を広めたきっかけは、1893年、彼の息子ヘンリ ...