オートマタのメーカー

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ヴィッシー / Vichy

オートマタを世界に広めたヴィッシーカンパニーは1862年、時計やその他の機械 仕掛けのおもちゃを製造する会社としてスタートした。 オートマタで本格的に有名になったのは、3代目ヴィッシーの社長である "GustaveVichy"の功績が大きい。彼は社長であると同時にオートマタ職人でもあっ た。彼の創るオートマタは、あまりに精巧で微妙な動きをとらえていたため、「もし 中世の法律が今でもあったなら、ムッシュ・ヴィッシーは、魔法使いといわれこの世 から追放されただろう」と当時の人々はうわさした。 ヴィッシーカンパニーが世界に名を広めたきっかけは、1893年、彼の息子ヘンリ ーと共に出展したシカゴ万博で絶賛されてからである。なかでも彼が制作した「ピエ ロエクリバン」「農夫とブタ」そして「月とピエロ」は有名で、その魅力は現在でも 人々を魅了してはなさない。

ランベール / Lambert

ランベールカンパニーの創始者、"LeopoldLambert"は1854年10月8日フランス の田舎町でうまれた。家庭の事情によりパリに移り住むことになり、パリで時計職人 の修行をはじめた。当時多くの時計職人がそうであったように彼もまたオートマタ職 人への道を歩んだ。 偶然とは、不思議なもので彼はヴィッシーでオートマタ職人としての修行をはじめ、 持ち前の器用さでヴィッシーの工場長を勤めた。 1886年、彼は独立し、以前縫い子をしていた妻が洋服を作り2人3脚で会社を大 きくしていった。ランベールカンパニーのトレードマークLBは 「LambertandBourgeois(妻の旧姓)」の頭文字である。

ルレ・エ・デキャン / Roulette & Decamp

"Jean Roullet"後にルレ・アンド・デキャンの創始者となる彼もまた若年にパリに移り 住み機械工業を学んだ。彼は当初オートマタ職人というより機械職人として、会社を スタートさせた。 パーツ作りの下請けをやっていたころ、彼の客であり、友人でもあるラモールが、ル レの技術をいかしてオートマタを創ってはどうかと持ち掛けた。そうして出来上がっ たのが、のちにトレードマークになった、「手押し車を押す農夫」のオートマタであ る。そのギミックは人々を驚かせ、1867年の博覧会においては、おもちゃとして ではなく、芸術家による新しい創造物として扱われた。この成功が彼らの名を一躍世 界に広げた。 ルレ・アンド・デキャン社のモットーであったオートマタは単なるおもちゃではなく 「動く彫刻」という認識が後世まで受け継がれ、スネークチャーマーのような素晴ら しい作品がうまれた。

レノー / Reno

レノーカンパニーは、パリの玩具会社を前身として、"LouisRenou"が1886年に設 立した会社である。設立当初は、以前と同じ様に玩具中心であったが、次第に当時、 黄金時代を迎えていたオートマタの世界に足を踏みいれたのだった。しかしレノー は、ほかのオートマタメーカーとは少し違った考え方を持っていた。彼はもっと世間 の人にオートマタを広めるために、当時ポピュラーだった仕掛けに凝った大型のオー トマタよりも、シンプルでかわいさを強調したものを中心に制作した。

ミシェル・ベルトラン Michel Bertrand

ミシェル・ベルトラン氏は1955年9月、J.A.F.(パリのオートマタ工 房)に於いて人形制作を担当する職人として働き始めた。その後、頭部の 動きを専門に復元する部署へ配属され、1967年までの12年間をそこで過 ごす。その後J.A.F.から独立。パリ郊外にアトリエを持った後、オルゴー ル発祥の街といわれるスイス、サンクロア近郊に1995年までアトリエを 構えた。

ベルトラン氏はオートマタに魅了された一人であり、前世紀の伝統を引 き継ぐ職人として有名なだけでなく、腕利きのオートマタ鑑定家としても 著名である。氏の作品は、J.A.F.時代に習得した技術、芸術家としてのセ ンスによって、19世紀のオートマタを再現していることで有名である。 オートマタ制作に使用するパーツ群もJ.A.F.から引き継いだ、ヴィッシー が使用していたものと同じ当時の部品を多用している。数ある作品のなか でも特に「農夫と豚」「詩人」そして「ピエロ・エクリバン」は、アンテ ィーク・オートマタを忠実に再現していることで有名な作品である。